最近、ひたすら自分のことを考えてました。自分がわからない奴に人の本質が見えるわけがない、という発想です。

 これがなかなか難しい。様々な趣向、意志、特有概念等のルーツを自問したり、そもそも自分というこの意識の最も根本的なもの、つまり基幹を見出そうとしても、芳しい結果は得られませんでした。というわけで、今日ちょっくらサイクリングしてきました。

 サイクリング自体は、半日かけて150〜160kmくらい走ってきただけなのです。ですが、とある景色に触発されて一つヒントが得られたわけです。その景色とは、前記の気違い然とした文章で書いた、輝ける世界、です。

 その景色は、一言で言えば”静”です。時間という概念が感じられない、つまり、”動”という概念が一切排除されてしまっていたのです。
 この景色で俺は虚しさ、終焉(つまり、それ以上でも以下でもない、ある意味絶対的な、それでもってとても脆い雰囲気)的なものを感じるとともに、強く心をひきつけられました。そこで俺は、自分が”静”を欲しているということなのか、と自問しました。これが今日の収穫の全てです。

 ”静”を欲しているならば、その逆である”動”を欲するわけがない。しかしながら、かつて俺が感じた輝ける世界の感覚は明らかに”動”の要素を含んでいた。これは一体どういうことなのか。
 ”静”に内包された”動”、つまり、時間的幅を設けた”静”として捕らえれば矛盾は解消できます。しかしながら、かつての”動”をそこまで安易に捉えられるかは疑問です。むしろ、未来の無限性を含んだ”動”であったかもしれず、または、”動”を瞬間のレヴェルにまで”静”に漸近させたもの。つまり、”静”にして”動”的なもの(動という概念を伴わない動)であったかもしれません。

 いずれにせよ、”静”と”動”の相反するはずのものが、俺の根幹の一部を共に担っている。つまり俺は”静”と”動”を相伴う部分があるということは確かです。ここから、自分の根幹へのアプローチが行えるかもしれません。つづく(?)

(あ〜あ、また気違いじもたもの書いてしまった……。でも、一応現実をもとに考えたものだし……)

輝ける世界、完結編

2004年9月16日
 昼下がり、快晴、大気のうごめき、すがすがしさ、頭の明瞭さ、光。全てがそろった、再び輝ける世界の入り口に立てるとは思ってもみなかった。思えば簡単なことだった。ただ、全てを見通しながら今を生きればいいだけだった。きっかけとなったあの夢は、子供みたいにただ今を生きるだけでなく、また今までの俺みたいに見通しをたてながら生きるだけでなく、それらの両立が答えだということを知らしめてくれた。
 秘密にて。
 なんですかこの速度は! 手形キャンパスまで徒歩30分かかるのに、体感的にはほとんど一瞬(多分4、5分そこいら)で到着です。ママチャリで40分かかった御所野イオンも、ほっとんど時間がかからずにいけます。むしろ短すぎてもの足りません。楽しすぎです。

 しかし難点がいくつかあります。

 ?頭の高さと車の高さがほとんど同じなので、すぐ横を追い越されるとむちゃくちゃ怖い。よたついてるので車間のすり抜けも出来ない。
 ?横棒型のハンドルに慣れた俺には、ドロップハンドルと細いタイヤが不安定で、立ちこぎ、片手運転が出来ない。両手離し(ママチャリだと余裕)なんてもっての他。
 ?なにより、肺がつぶれそう!ヽ(´Д`; 気管支が苦しい……。

 ただ、ママチャリがほとんど止まってるようにしか見えなくて、車がそれこそママチャリみたいにとろく走ってるように感じます。要するに、ロードレーサーサイコー!!O(≧∇≦)O
 ようやく落ち着きました。ですので、昼間から考えてたことを書きます。冗談半分に読んでください(汗)

 ***

 この世には二種類の人間がいると思います。一つ、自分が好きな人間。二つ、自分が嫌いな人間。
 俺は完全に後者です。自分が大嫌いでなりません。もし俺が他人だったら、絶対に殴ります(笑)

 大嫌いなもので在り続ける苦痛、これは耐えかねるものです。ですから、後者の人間は自己洗練に努めるものです。俺の場合はそれに拍車がかかり、似非理想主義の域に達してしまったわけです。星をつかもうとする人間。

 更に、自分の資質というものも考えざるを得ません。あることをしたい、しかしこんな自分には分不相応である。だから自分をさらに高めることにしよう。そして何も出来なくなってしまう。

 空ばかりを見上げていたので、最終的に、自分が大地に立っていることを忘れてしまう。空からも大地からも隔たった存在、そんな大嫌いな自分。ああ、素晴らしき自己嫌悪( ´△`)

(冗談ですよ!冗談ですってば(>▽<;; 別に自分が好きでもないですが)
ISBN:4480059954 新書 滝川一廣 筑摩書房 2004/07/06 ¥735

 昨日、ママチャリのタイヤ(後輪)がパンクしました。購入して五ヶ月、実質三ヵ月半での出来事です。んで、車道を曲がった(友人曰くドリフト)時に後輪がもってかれて、車にひかれかけました、今年で四度目(くらい)の事です。タイヤ交換をしないと非常に危険、しかし、安物チャリのタイヤ交換をするなんて……ということで、ロードレーサーを買っちゃいました(〃^∇^)o(バカ)今月の生活費は火の車〜。

 ***

 馬鹿話はさておき、真面目なブックレビューです。この本では、綜合失調症、精神遅滞、自閉症等について色々な観点から述べられています。例えば、綜合失調症はある種の、精神の自然治癒であり、また、個人と社会の矛盾から生ずるものである、などです。
 つい最近まで俺は自閉症を引きこもりと少し勘違いしていて、恥じ入った経緯がありました。ですので、尚更に興味深かったです。これを読むと、正直、受験の面接で自閉症とかについて述べよとか言われたら危うかったのがよくわかります(笑)

輝ける世界 後編

2004年9月7日
 今しがた見た夢で全て氷解しました。至極単純明快です。俺自体が極めて中途半端はところにあるから、それを映し出すように全てが半端に見えてしまうのです。
 つまり、俺はいまだに子供以上大人未満の状態にあるわけです。いわゆるモラトリアムですか。これがそもそもの原因です。
 ですので、大人にならなければなりません。それが唯一の解決法です。 ……つまり、社会的責任の明確な自覚と、なにより堂々と一歩を踏み出す度胸(自信)!!

(夢の内容には今は触れませんが、ここまで夢と現実が対応していると不気味なものですね)

輝ける世界 前編

2004年9月5日
 どうでもいいのですが、本当に”金魚花火”と”さくらんぼ”って、歌っているの同一人物ですか…!?ラジオで聞きほれた、早速アマゾンで注文しよう。

 ***

 誰しもが、世界が光に満たされているような感じを覚えたことがあるでしょう。思えば、俺は小学校卒業まで、頻繁にこの感覚がしたものです。
 最も印象深く記憶に残っているのは、小学校を卒業して、最後に校庭を眺めたときです。世界がとてつもなく壮大で、奥行きが無限にあるようで、光り輝いているように感じました。

 しかし、いつの間にかこの感覚を喪失していた自分に気づきます。小学生の頃、順天堂から水道橋に下る坂の途中にある流水のオブジェを見て、キラキラしたものを感じたものです。しかし、高校の頃、最早水の流れていなかったそのオブジェを見て、虚しさしか抱けませんでした。高校以降は完全に、上記の感覚を忘れ去っていました。
 そして、その原因を考えると、一つ思い当たるものがありました。そう、深く考え事をするようになってから世界の輝きが失われてしまったのです。

 どうやったら、あの頃の輝きを取り戻せるのでしょうか。今更深く考えることをやめるわけにもいきませんし、やめたところで手遅れでしょう。この答えさえつかめれば、最近の空ろな感じも解消できるでしょうに。

アニマの束縛

2004年9月4日
 この一年、同じ内容の悪夢を三回見ています。内容は至極単純明快、命よりも大切なものが何らかの形で奪われるというものです。夢の中で毎回、俺は殺意に等しい憎悪を抱きます。そして奪った張本人を殺そうとします。
 しかし、この夢を見ているときは現実と夢の境界が極めて曖昧になってしまい、現実の体の感覚を夢で感じていながら、指揮系統は機能しておらず、いくら体を動かそうとしても動けないわけです。金縛りに似たものがあります。
 いずれの夢でも、相手に一発ぶちこんで目が覚めます。すると現実で左右いずれかの腕が痛むわけです。明晰夢でもないのに、夢の中の憎悪が現実の体を動かしてしまったのでしょう。

 昨日雑誌を読んでいたら、フロイトのアニマ/アニムスに関する記述がありました。曰く、アニマ(男性の中の女性像)に縛られ、それを現実に投影し続ければ、人間関係の崩壊を招く、だそうです。
 今から考えれば、毎回俺が奪われていたものは、自分のアニマなのかもしれません。夢で大切なものが失われるのは、現実での転機到来を知らせるものだといいます。つまり、ここ一年で少なくとも三回転機がもたらされかけたということでしょう。(もしかしら、アニマからの解放という転機がです)

 しかし、未だに自分がアニマに束縛され続けていることに気づきます。現実の人間関係を崩壊させはしませんが、恋愛からはほど遠いところにいる理由の一つがこれであることは確かです。
 束縛から解放されたい気持ち半分、束縛に一生埋もれていたい気持ち半分、なんとも言えないものです。

9月2日の日記

2004年9月2日
 学校は疲れます。昨日、夕方の六時頃読書中に寝てしまって、起きたのが今朝の七時です(笑)今日は特に内容はありません。以上。
 最近は、夏休みの宿題(というよりは、休み明けの試験勉強)を(かなり追い詰められているのに)のんびりとやっています。そして、今日は”ヘブライズムの倫理思想”という講義の期末試験用の解答を仕上げていました(試験問題は事前提示です)。折角ですので、さらしてみたいと思います。
 ただ、まぁ、なんというか……、親や医学部教授にはみせられないな(>▽<;;

 ***

神の形式からの、世界の決定論、自由論の考察

 世界が決定論的なのか、自由論的なのかは様々に考察されてきた。ここでは、二例の神の形式から考察する。
 まず、人格的かつ時間的な神をいだく旧約聖書の世界は、準自由論的であると私は考える。何故に、物語中で神は局所的な決定力を持ちながらも、全体は自由論的だからである。ただし、ここでの自由とは意志におけるものであり、人という形式の不自由性は考慮外とする。
 創世記39-23“ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである” エレミヤ書25-9“わたしの僕バビロンの王ネブカドレツァルに命じて〜”等より、神の局所的決定力は自明である。さらに、エレミヤ書8-5“どうして、この民エルサレムは背く者となりいつまでも背いているのか”やエデンの園追放のくだり等から、人が自由に振舞い得ると考えられる。もし個々の事例で意図的に反逆させているのならば、そもそも聖書の神観念は成立しないであろう。

 次に科学的パラダイムにある現実世界である。私は神という観念の在り方によっては、この世界は決定論的だと考える。
 バールーフ・デ・スピノザは、神を無限の属性たる自然の内なる原因と捉えた。西田幾多郎はその初期哲学で、神を究極の意識統一と捉えた。また、セーレン・キェルケゴールは、絶対的に沈黙し、絶対的に服従することで、絶対的喜びに至り、人がその人自身に永遠に現在するようになり得るところの今日へと至る、それを神とした。これらの神概念から、私は神を、物理的、精神的な全ての事象を決定する絶対法則と解釈する。それは全てに内在する性質であり、定義である。初期条件により、全てが決定されるのである。人は自由である、しかしそれは原初から決定されていた自由である。
 しかしながら、この絶対法則の証明は物理的な面ですら、二つの点からほぼ不可能である。第一に、絶対法則は全ての現実そのものだからである。科学における、ほぼ確からしい理論は組めても、時間的、空間的な現実の全てを把握することで得られる、無限に確からしい法則は、そもそも有限である人間にはほぼ組み得ない。第二に、たとえ上記の手続き以外で法則が得られても、その実証は不可能だからである。法則から未来事象を予測することで実証を行うため、まず初期条件を与える必要がある。しかし、物理的世界にはカオス的な系が含まれる事象が存在するため、誤差は指数関数的に拡大する。よって初期条件を無限に確からしくしなければならない。宇宙全てを計算機にしたとしても、有限な計算能力しか持たない我々にこれは不可能である。

 以上より、例で挙げた二つの神概念は、それを決定論的か、それとも自由論的かにおいては決定できるも、それ自体絶対的確からしさは持ち得ない。それは他の様々な例においても同様であろうと考えられる。最終的に、世界が決定論的か、自由論的かを決定するのは、各人がどのように信ずるかによるのであると考えられ、私は少なくとも、ここではそのように結論付ける。最後に、私は無宗教であることを付す。

整理しました

2004年8月28日
 日記を少々(というか大幅に)整理しました。どうでもいいのですが、この日記ってあんまり過去ログが残せないんですね、今更気づきました((>▽<;;

 そういえば、今日昼寝していた時、久々に興味深い夢を見ました。内容は言語化しかねるのですが、これで確実に、ヒトが人である所以たる本質に一歩近づきました。詳細はまた今度。
 俺は今年も負け組確定です(ノ_・、) 受験関連でリンクして下さっている皆さんの凄まじい努力を見てると、ますます自己嫌悪な今日この頃☆彡 (物事に取り組む姿勢の観点から)

 ***

 さて、結果報告です。絶食(水を除く)は結局、96時間の時点で本能的にやばいと思ったのでストップしました。過去色々とやってきた結果獲得した空腹感を感じない体質も、本能的警告には太刀打ちできません(笑)
 タイトルにもあるように、よく”空腹は最高のスパイス”というものです。そして誰でも実感したことがおありでしょう。
 今回絶食はきっかり四日間。これはさぞや食べ物が美味いに違いない!!というわけで嬉々として四日ぶりの飯を食いました。そしてふと気づく。

 ”味がしない!”

 そう、味わっている余裕などありません。全身を駆け巡るは安堵感(笑)

 結論;空腹で飯を美味くするには、せいぜい昼飯を抜くとか、その程度がベストのようです。

(なお、絶食を終えた後も節食をしており、今日までで4kg落としました、後3kgです。過去20kgダイエットをした俺にこの程度軽いものです)

ダイエットします

2004年8月23日
 さて、秋田は今日の最高気温が24度と、秋の香りが漂うようになってきました(いまだにクーラーつけてますが)。夏休みもあと少し、休みにしか出来ない何かをしたい!何をしよう! ……そうだ!ダイエットをしよう!(ぇ?

 帰郷前の俺の体重は、標準体重4?オーバーでした。筋肉の分も考えれば妥当なところです。
 しかし、今は標準体重7?オーバーです。そう!一週間の帰郷で3?肥えてきました。しかもその間ろくに運動してなかったので、実質もっと増えてます。顔がむくんでて非常に見苦しい、というか醜いです。ベースからしてダメだというのに。

 というわけで、この際だから標準体重まで下げてしまおうというのが今回の趣旨。方法は単純明快、絶食です(バカ)。筋肉が落ちないように筋トレも普段の倍に増やします。

 平常時はつきあいもあり飯を抜けません。夏休みだからこそのこの計画。一週間ちょいでどこまで落ちるのでしょうか。

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