充足感と喪失感
2004年11月6日 かけがいの無いものほど、満ち足りていたものほど、それを失ったときの喪失感は底知れないものになると思う。喪失感は、今までがどれ程幸せであったかを教えてくれる。
ならば、今まで生きてきた中で感じた一番大きな喪失感を見つめなおしてみれば、自ずと幸せが見えてくると思う。
多くの人は追憶をかかえている。美化された過去、どこまでが本当で、どこまでが嘘かも分からない。追憶に対して喪失感を抱くのは虚しさの極み、過去は絶対に再現できない。
しかし、追憶でなくとも、過去の喪失感を追うことそれ自体が偽りではないだろうか。過去の再現不能性に変わりはない。
ある意味、俺は今に至るまでずっと幸せだったのかもしれない。だから、数え切れないほどの喪失感を抱え込んで生きているのだと思う。その幸せさも失って、喪失感は増え続ける。それでも、後から幸せであったことをかみしめるよりは、幸せであることをいとおしく思いたい。
ノイズは出来る限り取り除いてきた。見せ掛けの幸せなど要らない。ただ、本当の幸せを心から大切にしたい。プログラムされた要求に従うことが幸せなのだろうか。食欲、睡眠欲、性欲、関わり、向上欲。どれも本質的でないと思う。人である以上ストレスもたまる。プログラムされた抑圧を解放するのはプログラムされた幸せで妥当だろう。けれど、プログラムで満たされないこの虚しさを埋め合わせるにはどうしたらいいのだろう。
一生懸命とか、ひたむきとか、そういう言葉はどうしても好きになれない。一生懸命になるためには、いろんなことから目を離さなければならない。逃避ではあれ、解決では絶対にない。思い煩いを神に投げやれとは言ったもの。
けれど、今俺がやれることはやはり、ただの一つしかないこともわかっている。結局、何度考えてもここに行き着いてしまう。喪失感を承知の上で、ひたむきに生きるしかないのだと。今年で何回目の結論だろう。いつになったらこの先に進むことが出来るのだろう。
ならば、今まで生きてきた中で感じた一番大きな喪失感を見つめなおしてみれば、自ずと幸せが見えてくると思う。
多くの人は追憶をかかえている。美化された過去、どこまでが本当で、どこまでが嘘かも分からない。追憶に対して喪失感を抱くのは虚しさの極み、過去は絶対に再現できない。
しかし、追憶でなくとも、過去の喪失感を追うことそれ自体が偽りではないだろうか。過去の再現不能性に変わりはない。
ある意味、俺は今に至るまでずっと幸せだったのかもしれない。だから、数え切れないほどの喪失感を抱え込んで生きているのだと思う。その幸せさも失って、喪失感は増え続ける。それでも、後から幸せであったことをかみしめるよりは、幸せであることをいとおしく思いたい。
ノイズは出来る限り取り除いてきた。見せ掛けの幸せなど要らない。ただ、本当の幸せを心から大切にしたい。プログラムされた要求に従うことが幸せなのだろうか。食欲、睡眠欲、性欲、関わり、向上欲。どれも本質的でないと思う。人である以上ストレスもたまる。プログラムされた抑圧を解放するのはプログラムされた幸せで妥当だろう。けれど、プログラムで満たされないこの虚しさを埋め合わせるにはどうしたらいいのだろう。
一生懸命とか、ひたむきとか、そういう言葉はどうしても好きになれない。一生懸命になるためには、いろんなことから目を離さなければならない。逃避ではあれ、解決では絶対にない。思い煩いを神に投げやれとは言ったもの。
けれど、今俺がやれることはやはり、ただの一つしかないこともわかっている。結局、何度考えてもここに行き着いてしまう。喪失感を承知の上で、ひたむきに生きるしかないのだと。今年で何回目の結論だろう。いつになったらこの先に進むことが出来るのだろう。
コメント