言の葉という凶器

2004年10月1日
 情報通信技術が著しい発達を遂げて久しい今日、インターネットや携帯電話で、日々数多の言葉のやりとりがなされています。

 言葉というものは常に発言者と共にあるものです。人対人の会話ではごく当たり前のことです。しかし、このごく当たり前であるはずのことが、最近はいささか崩れてきてしまっているように感じます。

 人は何かを発言する際、様々な気持ちをそこに織り込みます。喜怒哀楽の感情から、暗に意味することまで多様ですが、一つ確かなことは、何もこめられていない言葉など存在しないということです。
 しかし、言葉がひとたび発言者から離れてしまうと、この言葉の含みが損なわれてしまいます。活字表現がその最たるものでしょう。

 例えば、俺が友人に笑いながら”バカ”と言ったとします。文脈にもよりますが、大体の場合は悪意の無いものでしょう。しかし、俺が携帯のメールで一言”バカ”と言い放つと、大抵は悪い意味に解釈されてしまいます。
 このように、活字対活字のやりとりでは、数少ない情報から言葉の含みを解釈しなければならず、よって、必然的に誤解が多くなってしまいます。

 しかも性質の悪いことに、言葉というものは元来冷たいもののように感じます。つまり、負のポテンシャルを持っているということです。そこに何の装飾も施さなければ、そのまま負の意味にとられるのは至極当然のことです。

 そこで人は、言葉の含みをより明瞭にするために、顔文字や独特の表記方法、言い回しを作り出すに至ったのでしょう。
 例えば、世の中に手紙や本しか存在しなければ、これらのものは(言葉の含みという観点からは)不要でしょう。何故に、それらの性質上、フォーマルであるか、文脈がしっかりしているからです。問題は、インフォーマルかつ、文脈があやふやなやりとりまで活字表記出来るようになってしまったことにあると思います。

 俺が顔文字を多様するのは、いままでの文章を読んでもらえれば明らかだと思います。それは何より、この言葉の含みを明らかにすることを意図しています。そして、言葉の冷たさを少しでも和らげられたらとも思っています。また、一時期ネットゲームをやっていたときも、そういった工夫を二重、三重にしたものです。

 思うに、ある集団内で用いられる特殊表現もそういった含みの試みの一環なのでしょう。変容し続ける若者言葉(一昔前には、ギャル字だったか何だったか、よくわからないものが流行ってた気がします)や、巨大掲示板特有の表記(正直あまり好きではないですが)、ネットゲーム特有の短縮表現等がその最たる例だと思います。これらは同時に、仲間意識を強め、そのコミュニティーの強化にも役立っているのでしょうね。

 ”言葉の暴力”とは言ったものです。初めから悪意を込めた言葉は問題外として、何気なく発言した言葉も、発言者から離れたところで悪意を付与されている可能性もなきにしてもあらずです(時折、そういった可能性を全く考慮できない方がいるのも事実です)。皆さんが普段何気なく使われている言葉も、吟味してみると様々なものが見えてくるかもしれません。

(た〜しか、こんな感じのことを某私立医大の面接で言ったわけですわ。落とされたけど(〃^∇^)o_彡☆ 頭が固くて融通の利かない胸糞悪い一部の面接官には、ネットゲームとかそういった単語だけでも毛嫌いされるみたいですね。って、確かこのネタ前も書いたな、まっ、いっかヾ(=^▽^=)ノ)

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