最近、ひたすら自分のことを考えてました。自分がわからない奴に人の本質が見えるわけがない、という発想です。

 これがなかなか難しい。様々な趣向、意志、特有概念等のルーツを自問したり、そもそも自分というこの意識の最も根本的なもの、つまり基幹を見出そうとしても、芳しい結果は得られませんでした。というわけで、今日ちょっくらサイクリングしてきました。

 サイクリング自体は、半日かけて150〜160kmくらい走ってきただけなのです。ですが、とある景色に触発されて一つヒントが得られたわけです。その景色とは、前記の気違い然とした文章で書いた、輝ける世界、です。

 その景色は、一言で言えば”静”です。時間という概念が感じられない、つまり、”動”という概念が一切排除されてしまっていたのです。
 この景色で俺は虚しさ、終焉(つまり、それ以上でも以下でもない、ある意味絶対的な、それでもってとても脆い雰囲気)的なものを感じるとともに、強く心をひきつけられました。そこで俺は、自分が”静”を欲しているということなのか、と自問しました。これが今日の収穫の全てです。

 ”静”を欲しているならば、その逆である”動”を欲するわけがない。しかしながら、かつて俺が感じた輝ける世界の感覚は明らかに”動”の要素を含んでいた。これは一体どういうことなのか。
 ”静”に内包された”動”、つまり、時間的幅を設けた”静”として捕らえれば矛盾は解消できます。しかしながら、かつての”動”をそこまで安易に捉えられるかは疑問です。むしろ、未来の無限性を含んだ”動”であったかもしれず、または、”動”を瞬間のレヴェルにまで”静”に漸近させたもの。つまり、”静”にして”動”的なもの(動という概念を伴わない動)であったかもしれません。

 いずれにせよ、”静”と”動”の相反するはずのものが、俺の根幹の一部を共に担っている。つまり俺は”静”と”動”を相伴う部分があるということは確かです。ここから、自分の根幹へのアプローチが行えるかもしれません。つづく(?)

(あ〜あ、また気違いじもたもの書いてしまった……。でも、一応現実をもとに考えたものだし……)

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