神の形式からの、世界の決定論、自由論の考察
2004年8月30日 最近は、夏休みの宿題(というよりは、休み明けの試験勉強)を(かなり追い詰められているのに)のんびりとやっています。そして、今日は”ヘブライズムの倫理思想”という講義の期末試験用の解答を仕上げていました(試験問題は事前提示です)。折角ですので、さらしてみたいと思います。
ただ、まぁ、なんというか……、親や医学部教授にはみせられないな(>▽<;;
***
神の形式からの、世界の決定論、自由論の考察
世界が決定論的なのか、自由論的なのかは様々に考察されてきた。ここでは、二例の神の形式から考察する。
まず、人格的かつ時間的な神をいだく旧約聖書の世界は、準自由論的であると私は考える。何故に、物語中で神は局所的な決定力を持ちながらも、全体は自由論的だからである。ただし、ここでの自由とは意志におけるものであり、人という形式の不自由性は考慮外とする。
創世記39-23“ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである” エレミヤ書25-9“わたしの僕バビロンの王ネブカドレツァルに命じて〜”等より、神の局所的決定力は自明である。さらに、エレミヤ書8-5“どうして、この民エルサレムは背く者となりいつまでも背いているのか”やエデンの園追放のくだり等から、人が自由に振舞い得ると考えられる。もし個々の事例で意図的に反逆させているのならば、そもそも聖書の神観念は成立しないであろう。
次に科学的パラダイムにある現実世界である。私は神という観念の在り方によっては、この世界は決定論的だと考える。
バールーフ・デ・スピノザは、神を無限の属性たる自然の内なる原因と捉えた。西田幾多郎はその初期哲学で、神を究極の意識統一と捉えた。また、セーレン・キェルケゴールは、絶対的に沈黙し、絶対的に服従することで、絶対的喜びに至り、人がその人自身に永遠に現在するようになり得るところの今日へと至る、それを神とした。これらの神概念から、私は神を、物理的、精神的な全ての事象を決定する絶対法則と解釈する。それは全てに内在する性質であり、定義である。初期条件により、全てが決定されるのである。人は自由である、しかしそれは原初から決定されていた自由である。
しかしながら、この絶対法則の証明は物理的な面ですら、二つの点からほぼ不可能である。第一に、絶対法則は全ての現実そのものだからである。科学における、ほぼ確からしい理論は組めても、時間的、空間的な現実の全てを把握することで得られる、無限に確からしい法則は、そもそも有限である人間にはほぼ組み得ない。第二に、たとえ上記の手続き以外で法則が得られても、その実証は不可能だからである。法則から未来事象を予測することで実証を行うため、まず初期条件を与える必要がある。しかし、物理的世界にはカオス的な系が含まれる事象が存在するため、誤差は指数関数的に拡大する。よって初期条件を無限に確からしくしなければならない。宇宙全てを計算機にしたとしても、有限な計算能力しか持たない我々にこれは不可能である。
以上より、例で挙げた二つの神概念は、それを決定論的か、それとも自由論的かにおいては決定できるも、それ自体絶対的確からしさは持ち得ない。それは他の様々な例においても同様であろうと考えられる。最終的に、世界が決定論的か、自由論的かを決定するのは、各人がどのように信ずるかによるのであると考えられ、私は少なくとも、ここではそのように結論付ける。最後に、私は無宗教であることを付す。
ただ、まぁ、なんというか……、親や医学部教授にはみせられないな(>▽<;;
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神の形式からの、世界の決定論、自由論の考察
世界が決定論的なのか、自由論的なのかは様々に考察されてきた。ここでは、二例の神の形式から考察する。
まず、人格的かつ時間的な神をいだく旧約聖書の世界は、準自由論的であると私は考える。何故に、物語中で神は局所的な決定力を持ちながらも、全体は自由論的だからである。ただし、ここでの自由とは意志におけるものであり、人という形式の不自由性は考慮外とする。
創世記39-23“ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである” エレミヤ書25-9“わたしの僕バビロンの王ネブカドレツァルに命じて〜”等より、神の局所的決定力は自明である。さらに、エレミヤ書8-5“どうして、この民エルサレムは背く者となりいつまでも背いているのか”やエデンの園追放のくだり等から、人が自由に振舞い得ると考えられる。もし個々の事例で意図的に反逆させているのならば、そもそも聖書の神観念は成立しないであろう。
次に科学的パラダイムにある現実世界である。私は神という観念の在り方によっては、この世界は決定論的だと考える。
バールーフ・デ・スピノザは、神を無限の属性たる自然の内なる原因と捉えた。西田幾多郎はその初期哲学で、神を究極の意識統一と捉えた。また、セーレン・キェルケゴールは、絶対的に沈黙し、絶対的に服従することで、絶対的喜びに至り、人がその人自身に永遠に現在するようになり得るところの今日へと至る、それを神とした。これらの神概念から、私は神を、物理的、精神的な全ての事象を決定する絶対法則と解釈する。それは全てに内在する性質であり、定義である。初期条件により、全てが決定されるのである。人は自由である、しかしそれは原初から決定されていた自由である。
しかしながら、この絶対法則の証明は物理的な面ですら、二つの点からほぼ不可能である。第一に、絶対法則は全ての現実そのものだからである。科学における、ほぼ確からしい理論は組めても、時間的、空間的な現実の全てを把握することで得られる、無限に確からしい法則は、そもそも有限である人間にはほぼ組み得ない。第二に、たとえ上記の手続き以外で法則が得られても、その実証は不可能だからである。法則から未来事象を予測することで実証を行うため、まず初期条件を与える必要がある。しかし、物理的世界にはカオス的な系が含まれる事象が存在するため、誤差は指数関数的に拡大する。よって初期条件を無限に確からしくしなければならない。宇宙全てを計算機にしたとしても、有限な計算能力しか持たない我々にこれは不可能である。
以上より、例で挙げた二つの神概念は、それを決定論的か、それとも自由論的かにおいては決定できるも、それ自体絶対的確からしさは持ち得ない。それは他の様々な例においても同様であろうと考えられる。最終的に、世界が決定論的か、自由論的かを決定するのは、各人がどのように信ずるかによるのであると考えられ、私は少なくとも、ここではそのように結論付ける。最後に、私は無宗教であることを付す。
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