11月16日の日記

2004年11月16日
 こっそりと放置している自サイトがあります。ふとGoogleでサイト名を入れてググってみたら、自サイトがtop表示だったので少し嬉しい今日この頃。(そりゃ、サイト名がyahoo検索で0件ですからね( ̄▽ ̄)b )

 ***

 今日、ふとしたことから色んなものが見えてきました。そして、大分大切なモノを失っているように感じました。方針を得ても、手段を失すればどうしようもないからです。各手段についても、よく吟味する必要がありそうです。

 

死ぬということ

2004年11月10日
 当然ながら、ほとんどの人は死ぬことを恐れます。俺もその傾向にもれることなく、死の恐怖におののいたことは数知れません。

 そもそも、何故死は怖いんでしょう。進化論的自然淘汰により、そのようにプログラムされていると言われればそこまでです。ただ、プログラムを意識的に統制できるのは人間の特性であり、死もその他プログラム同様、意識的な面があると考えます。

 例えば、”喪失”という観点から死を捉えてみます。人は死ぬことで何を失うのでしょう。思うに、以下のものが中でも重要です。

 ?知覚能力(死ぬことで、現実の出来事を知ることが出来なくなる)
 ?干渉能力(死ぬことで、人と関わったり、物理的干渉をすることが出来なくなる)
 ?思考能力(死ぬことで、考えることが出来なくなる)
 ?快楽能力(死ぬことで、快楽に興じることが出来なくなる)

 いずれも、自己存在の喪失に伴います。次に、どれが一番大切なのかを考えて見ます。
 突然ですが、あなたは死にました。目の前にはスカイハイのイズコよろしく、門番がいて、あなたの取り得る選択肢を示します。

 ?自分を失い客観的観点から、夢を見るように、無意識的に現実の出来事を永遠に受け入れ続ける。
 ?人の相互の関わりのみを永遠とし続ける(金魚鉢に入れられた二匹の金魚)。
 ?考えることだけを永遠とし続ける。
 ?快楽行為のみを永遠とし続ける。
 ?完全消滅する。

 勿論、スカイハイよろしく答えは人それぞれです(どうでもいいけれど、俺の怨みの門の先は絶対地獄だな(笑))。以下俺の場合を記します。
 俺は、多分?を選びます。?は論外として、?、?、?はいずれを欠いても意味を為さず、三つ一組で有意義であるように感じます。よって、いずれか一つをとれという条件ならば、?が最良になってしまうわけです。

 要するに俺の場合は、知ること、関わること、考えることが意味を為さなくなってしまうために、死を恐怖すると考えることが出来ます。しかし、全く以ってこの結論はしっくりこないのです。つまり、死の恐怖そのものと符合しないのです。

 平素、死に程遠い環境に生きる人は、あたかも自分の生が永遠であるかのように考えがちです。しかし、実際に目を向けてみると、その永遠が崩壊していくのが目に見えてわかるのです。上記のものに比べ直感的になってしまいますが、この永遠の崩壊こそが、死においてより本質的だと思います。ある日、夢と現実が実は反対だったと明かされるようなものです。人の生はごくごく一瞬です。永遠と信じていたものが一瞬だとわかり、人は本当の永遠にめまいを覚えます。このめまいこそが死の恐怖なのでしょう。あくまで俺の場合ですが。

 めまいは所詮一過性のものです。本当の永遠を知ればこそ、そこに嬉々として飛び込む者も多々いるのでしょう。俺も微かに魅力を感じてしまうところがなきにしてもあらずです。しかし、飛び込む先が永遠であり二度と引き返せないからこそ、与えられた一瞬をまず味わってからと思うのです。

(そういえば、本漬けで育った子供って、自殺率が高いらしいですね。適度に馬鹿やっててよかった(>▽<;; )
 http://www.toei-anim.co.jp/tv/xenosaga/

 最早ほとんどゲームはやらない、だが、これだけは言わせてもらう!言わないと気が済まん!!

 ”ふざけんのもほどほどにしとけっ!!!w|;゜ロ゜|w ”

 ゼノギアスというゲームをご存じでしょうか。広大かつ深遠な世界観の元に描かれた名作であり、俺が最も好きなゲームです。はっきり言って、所詮ゲームなど虚構の世界を仮想体験して自己満足する代物なのですが、今でも、これだけは別物に感じます。昨今、現実に生じている諸問題を織り込んだゲームをよく見かけるが、これに勝るものはないでしょう。それも一側面に過ぎず、その他あらゆる要素で秀でていると俺は思います。

 そのゼノギアスの世界観を再構築したのがゼノサーガというゲームです。指輪物語みたいに、エピソード毎に分割されていて未だ完結していません。それ故、内容に関する評価は避けます。しかし、ゼノギアスと比して多分に映像重視となってしまい、ストーリー及びにゲーム性がかなり薄くなってしまったように感じます。要するに、ストーリーを進めるための作業と化していて、根底的な部分が歪んでしまっている感は否めません。

 それでも、その深遠な世界観を見せてくれるからこそ、エピソード2が出るまで二年以上開こうが待ち続ける気になるわけです。
 話は変わりますが、.hackというゲームが数年前にありました。ゲーム、アニメ、コミック、雑誌などのメディアミックスを行い、なかなか良く出来た例だと思います。
 そして、今回のゼノサーガのアニメ化です。どうしても、劣化コピーと考えざるを得ません(既にコミック化もしてしまっています)。.hackの方は、諸メディアで一つの世界観に対して複数の視点を与えていました。しかし、ゼノサーガの方は、同じ視点を別メディアでなぞっているだけなのです。

 声を大にして言う!アニメ化するならするで、世界観をより深める手段として利用するくらいしろ!!俺にはゲームの制作費を回収するための、産業的手段にしか見えねぇ!!やることが半端なんだよ!パイド・パイパーの方は良いにせよ……(ノ◇≦。) ビェーン!!

 一体、完結するまで何年かかるのでしょう。昨今、”無駄に”グラフィックが重視されたゲームが溢れかえっています。しかし、グラフィック目的でゲームをプレイしている奴などいるのでしょう。副要素を重視するあまり、主要素がないがしろにされているゲームには、”写真レヴェルに現実に忠実な風景画”と同種の虚しさを感じます。そりゃ、グラフィックもFFとかみたいに徹底すれば良いですが、一見つくりこんでいるようで、実は中途半端な部分が目立つあのグラフィックじゃあ……(例えば航宙船にしても、スターオーシャンくらいに作りこんでればともかく、あのポリゴンポリゴンしたものじゃぁ。ESのデザインも、ゼブルンとか…(o;_ω_)o)
 ”家族”とはどういった関係なのでしょうか。俺は最近まで、家族という関係を、遺伝子的連続性の観点からのみ捉えていました。つまり、親子の絆はまさしく血のみだという風にです。極論すれば、養子の親子関係を赤の他人とみなしていたわけです。

 しかし、一人暮らしをすることで、血に比すれば取るに足らないものであったはずの、精神的な絆が如何に大切なものであるのかを実感しました。お互いを相互に深く認識することで生じるものこそ、より良く生きる上で欠かせない要素なのでしょう。

 ”誕生日おめでとう”この言葉を一度もかけられたことのない人などいないでしょう。捉えようによっては一年の内で最も大切な日を、何倍にも輝かせてくれる一言です。その一言を、当たり前のように言ってくれる存在がどれだけかけがいの無いものなのかは、少し距離をおいてみなければわかりません。

 あらゆる関係の本質は、部分的にではあれ、この当たり前というかけがいの無さによっているように感じます。そしてそれは、唯一つではなくとも、ごくごく少数の相互関係間でのみ成り立つものだと思います。だからこそ、そのごく限られた当たり前というかけがえの無さを知らずして、仮初の関係になびく者の末路はああも哀れなのでしょう。

 家族、親友、そして家族。関係の連鎖の中で、真に築かれてゆくものとは何なのでしょう。

熊牧場

2004年11月7日
 くま熊クマ( ̄(エ) ̄)熊クマくまくまくまくまぁ!!!w|;゜ロ゜|w 奴らあんなに自在に立ったり座ったり出来るんですか、って可愛すぎるぞこんちくしょう!! (ぇ?
? ボール(中くらいのが良い)に蜜豆缶を3つ投入する。
? あんこ(粒あんかこしあんかはお好みで)を500g投入する。
? 裕福な人はハーゲンダッツのリッチミルクを、そこそこの人は牧場しぼりを三個、レンジで15秒温めて投入する。
? ぎゅうひや白玉をお好みで投入する。
? 蜜をどばっとかけて出来上がり。

 Let’s challenge!!(゜∇^d) ♪

(註;生半可な覚悟で作るのは止めましょう。ってか、後天的糖尿病になりたくなければ止めときましょうΣ(−x−;))

充足感と喪失感

2004年11月6日
 かけがいの無いものほど、満ち足りていたものほど、それを失ったときの喪失感は底知れないものになると思う。喪失感は、今までがどれ程幸せであったかを教えてくれる。
 ならば、今まで生きてきた中で感じた一番大きな喪失感を見つめなおしてみれば、自ずと幸せが見えてくると思う。

 多くの人は追憶をかかえている。美化された過去、どこまでが本当で、どこまでが嘘かも分からない。追憶に対して喪失感を抱くのは虚しさの極み、過去は絶対に再現できない。
 しかし、追憶でなくとも、過去の喪失感を追うことそれ自体が偽りではないだろうか。過去の再現不能性に変わりはない。

 ある意味、俺は今に至るまでずっと幸せだったのかもしれない。だから、数え切れないほどの喪失感を抱え込んで生きているのだと思う。その幸せさも失って、喪失感は増え続ける。それでも、後から幸せであったことをかみしめるよりは、幸せであることをいとおしく思いたい。

 ノイズは出来る限り取り除いてきた。見せ掛けの幸せなど要らない。ただ、本当の幸せを心から大切にしたい。プログラムされた要求に従うことが幸せなのだろうか。食欲、睡眠欲、性欲、関わり、向上欲。どれも本質的でないと思う。人である以上ストレスもたまる。プログラムされた抑圧を解放するのはプログラムされた幸せで妥当だろう。けれど、プログラムで満たされないこの虚しさを埋め合わせるにはどうしたらいいのだろう。

 一生懸命とか、ひたむきとか、そういう言葉はどうしても好きになれない。一生懸命になるためには、いろんなことから目を離さなければならない。逃避ではあれ、解決では絶対にない。思い煩いを神に投げやれとは言ったもの。

 けれど、今俺がやれることはやはり、ただの一つしかないこともわかっている。結局、何度考えてもここに行き着いてしまう。喪失感を承知の上で、ひたむきに生きるしかないのだと。今年で何回目の結論だろう。いつになったらこの先に進むことが出来るのだろう。

追憶ver2

2004年10月17日
 思うに、人が時間から解放される場合は二種類。一つに、今を過ごすことによる動的解放。一つに、或る条件で異なる時系列のステータスを同一化する静的解放。前者は今の性質故、意識的になり難い、いわば無意識よりの作用。一方、後者は主に過去の喚起か、個人的精神形質との合致によって引き起こされるため、意識であることが出来る。それ故、今がそれであると意識できるのは常に後者。果たしてより幸福の本質に近いのはいずれか?
 たまには、当然のことだけど、役立ちそうな話をします。医学部受験では、ほとんどの場合面接を経る必要があります。赤本等の配点を見る限り、そこまで致命的な差が出る要素とは思いにくいものです。しかし、実際にはセンター試験で720〜30/900点程の方が合格していることもあり、あなどることは出来ません。

 俺は自分で言うのもなんですが、心の奥底に攻撃的なものがあります。慈恵の集団面接の時も(俺は落ちましたが)、無駄にギラギラしていた感があります。これがあまり好ましくなかったのと、親に諭されたので、国立前期の時は、協調性を極力重視するように面接を受けました。

 国立前期では、自分たちは五人のグループでした。その中で、自分を含めて二人が、取りまとめる側に回っていたと思います。結果はいうまでもないでしょう。面接前に、もう一人の方が全体のまとまりを作ってくださったので、俺としても非常にやりやすかったです。

 そもそも、面接を見ていれば誰が受かって誰が落ちるかなど容易にわかります。慈恵の面接の時も、グループの中に、雰囲気からして格が違う方が一人、取りまとめていました。結局、一回目の発表で受かっていたのはその方だけでした(確か)。

 いくら学力が良い所で、じめじめねちねちした奴や、常にギラギラしている奴に医者になって欲しくありませんし、それは面接官も同じなのでしょう。求められるのは識者としての雰囲気です。
 あなたは面接直前まで、目をギラつかせて参考書に見入ってるタイプですか? それとも、同じ面接グループの仲間や友人と談笑を楽しむタイプですか?

飛翔

2004年10月15日
 昨晩、記憶に残る限りで、生まれて初めて空を飛ぶ夢を見ました。なかなか素晴らしいものです。しかし、致命的に何かが欠けているように思えました。例えれば、爽快感というか、幸福感というか、満たされた感じというか、とにかく、ただ飛んでいるという事象を体験しているだけなのです。夢の中でそういった感覚をし得ることはかつて体験済みです。としますと、空を飛ぶということは、俺にとってそう大して重要な事象じゃないのでしょうね。(それと、夢の中で、電線が危険なこと、床ブロックの認識、時間感覚、地面を爪先立ちで歩くことなどが確かに認識されました。この所の観察から言って、どうやら夢は現実とほとんど変わりない、しいて言うならば、自己認識の度合いが低いか、乃至は、現実の常識感を感覚に織り込む力(つまり、ありのままではなく、そこに理性的考察を加える力)に欠いているようですね。とすると、ありのままに受け取っている限りでは、現実も夢もほとんど変わらないということになり……興味深い!!)
 そいえば、やっぱブラックジャックかっこいいですねェ。脳神経外科の教授かブラックジャック、なれるとしたらどっちと聞かれたら、そりゃもう、答えは一つ!(それと、写楽が覚醒して、赤いコンドルを呼び出さないものかと密かに期待していたのは俺だけでしょうか(>▽<;; )

 ***

”もし願いが何でも一つ叶うとしたら、貴方は何を願いますか?”

 ある意味、永遠の命題です。星新一氏がショートショートで度々取り上げていたりもします。そして、これほど願い人の人間性が伺える問いもそうありません。ある人は不老不死、ある人は巨万の富、ある人は権力を求めるでしょう。そこで、俺は何を求めるのかと自問してみるわけです。

 例えば、俺は中学生の時(だったっけ?)、宇宙の外側がどうなっているのか知りたくてたまりませんでした(星新一氏のショートショートの中には、これをネタにしたものもありましたね(*^-^))。その安易な解決法として、不老不死を得て宇宙の終焉まで待てば、自ずとその先が見えてくるのではとか考えたものです。しかし、せいぜい宇宙と一緒にオシャカなのがオチですし、あまりに気が遠すぎて自我が崩壊してしまいます(光速移動出来れば早いのですけれどね)。

 或いは、こんな無意味な人生、せいぜい楽しんでやろうじゃないかと金を望みかねない時もありました(何かと、意義を見出そうとしていた、若かりし時ですね(*^^) 人それぞれ答えを導き出す命題であり、俺の場合、楽しけりゃいいじゃんって結論に達したものです(その楽しみがまた多義なのですが))。

 そして今は、一言”幸福が欲しい”と言います。それこそ、幸福というものも各人の主観に多分によるもので、はっきりとした定義はありません。俺は俺の幸福を見出そうと今まで苦心してきましたが、いまだにその糸口すら見出せません。そりゃ、38度線以北の某国家平民から見れば遥かに幸せなのでしょうが、それもいまいち本質的に感じられないのです。そこで、幸福が欲しいと一言言えば、その本質が見える上にその状態を得られるなんて、一石二鳥じゃないですか。

 生活水準でもなく、個人的才能でもなく、精神的何かが一番幸福という言葉に見合っていると思うのですが、やはり皆目見当もつきません。ある意味、こうして幸福探しをしていられること自体が、この上なく幸せなのでしょうけれど。

 あなたは、何を願いますか?
 先日、第二回施設体験学習で精神疾患専門病院の、安定期にある患者方が入る病棟で見学をしてきました。

 私の祖父はかつて痴呆等を患い、駿河台の半ばにある某病院に入院していたことがありました。おせじにも、そこの環境は良いとはいえないものでした(普通に院内感染が起こっていましたし。かえってあそこに居たせいで悪化したのではないでしょうか)。その時の経験から、痴呆老人療養介護病院というのには、あまり良いイメージをもっていなかったのです。

 ですが、先日行った病院はその嫌な感じがあまりしませんでした。明るく、病院という感じがほとんどしませんし、死を感じさせるような要素もありませんでした。

 しかし、それでもいくつか感じるところのものがありました。とあるゲームの言葉を借用しますと、”人間牧場”というのが丁度当てはまると思いました。本人の意志に関わらず、生存に必要な作業の大半を外部が担い、生かされているのです。そこに完全な自主的営為はほとんど存在しません。
 患者方が全て痴呆を患い、情報の統合処理及びにそれに基づく外部への運動・動作の発動に支障をきたすのであれば、それも致し方ないことでしょう。しかし、中には部分的に患いはせよ、正常に過ごすことも出来る方が存在するのです。確かに、その部分的患いが原因だといわれればそこまでですが、そういった方々がわざわざ病院で暮らすことの必然性が感じられないのです。

 昨今、痴呆老人が街中で迷子になってしまったり、厄介ごとを起こしてしまう話がよく聞かれます。そういった場合、社会的責任を負うのはその家族です。私の祖父が痴呆を患った際、生活の補助をしていた母がノイローゼ気味であったのをはっきりと覚えています。
 そういった、家族/地域社会の負担軽減措置として、痴呆老人を療養・介護する施設があるといった見方も出来ますし、実際、部分的には真なのでしょう。

 そう考えると、そういった施設が現代の姥捨て山に思えてきてしまいます。そしてそこに、社会的道徳観と社会的風潮の板ばさみになった患者方を見出すわけです。
 いくら負担となるからといって、姥捨て山のような行為は道徳観に反する。とはいえ、痴呆を患った老人を負担とみなす風潮がある現代社会はそういった存在を煙たがる。その結果、社会的要請に見合った施設が設けられることとなる。

 http://www.asahi.com/health/alz/index.html
 こういった記事を読んでいると、つくづく上記のようなことを感じてしまいます。社会的要請に基づく処置の犠牲となるのは、患者方の精神的尊厳です。
 前述通り、私が先日見学させていただいた施設は良い雰囲気で、これも一つの老後のあり方なのだなと、素直に納得させるものがありました。しかし、その根源に存在する社会的性質は多々問題を抱えており、それと真摯に向き合ってゆくことは社会を生きる各人、とりわけ医療に携わる者に欠かせざることでしょう。
 前期の評価が返ってくる季節ですね〜。とりあえず今出てるものは、A9個B3個C0個。ドイツ語と再生医工学はさておき、心理学は自信あったんですけどねェ…(ノ_-;) ま、とりあえず親から仕送りを断たれることもなさそうだし、良しとしますか。(にしても、なんて評価の甘い大学なんだろう)

 ***

 そう、俺にとって日記というものは、朝何時に起きて、何時に何して……ってものです。けれど、最近の日記はもっぱら雑記帳の延長でした。ですので、タイトル通り、たまには日記らしい日記を書いてみよう!

 午前6時00分 ;起床。目覚めると同時に悪寒を覚える&昨日痛めた肩がじくじくして最悪のグッドモーニング(しかも、悪夢からの)

 午前6時10分
  〜
 午前10時00分;ライティング課題消化。朝飯食わなかったので脳みそが働かず、一向にはかどらずに終わる。多分大半はラジオのリスナーになってた。

 午前10時30分
  〜
 午前12時00分;スポーツ論講義。こちとら無駄なことのやりすぎでろくに寝てないのに、部屋を暗くしてOHPによる授業。お(ノ ̄0 ̄)ノや(o ̄・ ̄)oす(。_ _)。みzzz..

 午後0時00分
  〜
 午後0時50分;昼飯。揚げだし豆腐分の、余計な出費とカロリーが痛かった。(空腹の人間にあれだけの料理を見せるのは卑怯だよ(_TдT) )

 午後0時50分
  〜
 午後1時30分;心理学講義。後期の心理学の方が面白そうだなと思った。にしても、やっぱり前期の心理学がBなのは納得いかない!!(ノ_・、)

 午後2時00分
  〜
 午後3時30分;図書館でライティング課題消化。揚げ出し豆腐(+その他)のエネルギーと、スポーツ論の時にリフレッシュした頭で、サクっとこなす。残り半分。にしても、図書館の医学部分館っていつもピリピリしてて、自習はやりやすいんですがとても居心地悪いです。

 午後3時45分
  〜
 午後6時00分;部活の用事。

 午後6時30分
  〜
 午後7時00分;晩飯。これからもうひと踏ん張りせなあかんので菓子を大量に食う。あ〜あ、これで今日は1000kcalどころか、4000オーバーだぜ(爆) 普通の飯じゃなくて、菓子ってのがミソ(チロルチョコ、ビッグかつ、カントリーマーム、栗蒸し羊羹、プリンetc って、甘いもの禁止ってのも破っちまった(>▽<;; )これで禁破ったの何回目だろ。)食べた後猛烈に後悔(デぶる!!&糖尿病!!)。明日絶食することを誓う。

 午後7時00分
  〜
 午後9時00分;ライティング課題消化。甘いものパワーでサクっと終わらせる。グルコースは脳ミソの栄養です、よって、甘いものも脳ミソの栄養です(ぇ?

 一日がそもそもつまらないので、日記もつまらないです。毎日この形式の日記を面白く書ける人がうらやましものです。

(にしても、最早俺個人をいつ特定されてもおかしくないな(>▽<;; )そもそも匿名性は好かんからいいのですが。)

目盛の無いものさし

2004年10月5日
 一人暮らしを始めてざっと半年経ちます。自分が中心となって生活していると、色々と感じることがあります。

 その一つに”自由のはき違い”があります。しばしば、家族との生活が窮屈で進んで一人暮らしを望む方を見受けます(俺も、他でもないその一人だったのですが)。その理由は大抵、家族という制約を抜け出し自由を得たい、といった感じです。

 実際、初めの三ヶ月くらいは、俺も自由なものだと思っていました。しかし、四ヶ月目くらいにふと、流れ行く時間が真っ白で、それがとんでもなく不自由に感じるようになりました。

 例えるならば、目盛の無いものさしです。変な方向に自由なので、かえって都合が悪くなってしまいます。生活にもやはり、目盛が必要なのだと切に思います。思うに、人は自分以外にしか目盛を刻むことが出来ません。そして、家族は俺の生活から失われてしまった目盛の最たるものでしょう。

 何も刻まれていない真っ白な時間は、いくら両手ですくいあげようとしても、わずかなすきまからさらさらと流れていってしまいます。後に残るのは、かつてそこにそれがあったという感じと、虚しさだけです。

 昨今、独り身の方が増えているとはいいます、一人暮らしも然りです。そういった方々は、どうやって時間に目盛を刻んでいるのでしょうか。それとも、真っ白な時間の果てしない淡白さと虚しさを感じないのでしょうか。
 かつて俺は、結婚というものの意義が全く理解出来ませんでした。けれど、今ならわかる気がします。真っ白な人生を過ごして、この虚しさを抱きながら死ぬのは絶対に嫌だと、心から思います。

(あ〜、一人暮らしにも飽きたのォf  ̄. ̄*))

 

言の葉という凶器

2004年10月1日
 情報通信技術が著しい発達を遂げて久しい今日、インターネットや携帯電話で、日々数多の言葉のやりとりがなされています。

 言葉というものは常に発言者と共にあるものです。人対人の会話ではごく当たり前のことです。しかし、このごく当たり前であるはずのことが、最近はいささか崩れてきてしまっているように感じます。

 人は何かを発言する際、様々な気持ちをそこに織り込みます。喜怒哀楽の感情から、暗に意味することまで多様ですが、一つ確かなことは、何もこめられていない言葉など存在しないということです。
 しかし、言葉がひとたび発言者から離れてしまうと、この言葉の含みが損なわれてしまいます。活字表現がその最たるものでしょう。

 例えば、俺が友人に笑いながら”バカ”と言ったとします。文脈にもよりますが、大体の場合は悪意の無いものでしょう。しかし、俺が携帯のメールで一言”バカ”と言い放つと、大抵は悪い意味に解釈されてしまいます。
 このように、活字対活字のやりとりでは、数少ない情報から言葉の含みを解釈しなければならず、よって、必然的に誤解が多くなってしまいます。

 しかも性質の悪いことに、言葉というものは元来冷たいもののように感じます。つまり、負のポテンシャルを持っているということです。そこに何の装飾も施さなければ、そのまま負の意味にとられるのは至極当然のことです。

 そこで人は、言葉の含みをより明瞭にするために、顔文字や独特の表記方法、言い回しを作り出すに至ったのでしょう。
 例えば、世の中に手紙や本しか存在しなければ、これらのものは(言葉の含みという観点からは)不要でしょう。何故に、それらの性質上、フォーマルであるか、文脈がしっかりしているからです。問題は、インフォーマルかつ、文脈があやふやなやりとりまで活字表記出来るようになってしまったことにあると思います。

 俺が顔文字を多様するのは、いままでの文章を読んでもらえれば明らかだと思います。それは何より、この言葉の含みを明らかにすることを意図しています。そして、言葉の冷たさを少しでも和らげられたらとも思っています。また、一時期ネットゲームをやっていたときも、そういった工夫を二重、三重にしたものです。

 思うに、ある集団内で用いられる特殊表現もそういった含みの試みの一環なのでしょう。変容し続ける若者言葉(一昔前には、ギャル字だったか何だったか、よくわからないものが流行ってた気がします)や、巨大掲示板特有の表記(正直あまり好きではないですが)、ネットゲーム特有の短縮表現等がその最たる例だと思います。これらは同時に、仲間意識を強め、そのコミュニティーの強化にも役立っているのでしょうね。

 ”言葉の暴力”とは言ったものです。初めから悪意を込めた言葉は問題外として、何気なく発言した言葉も、発言者から離れたところで悪意を付与されている可能性もなきにしてもあらずです(時折、そういった可能性を全く考慮できない方がいるのも事実です)。皆さんが普段何気なく使われている言葉も、吟味してみると様々なものが見えてくるかもしれません。

(た〜しか、こんな感じのことを某私立医大の面接で言ったわけですわ。落とされたけど(〃^∇^)o_彡☆ 頭が固くて融通の利かない胸糞悪い一部の面接官には、ネットゲームとかそういった単語だけでも毛嫌いされるみたいですね。って、確かこのネタ前も書いたな、まっ、いっかヾ(=^▽^=)ノ)
gender : the state of being male or female chiefly in cultural or social contexts.(Concise Oxford Dictionaryより)

 それは数年前の話……。甘味食べ放題に乗り込んだ時のこと、恍惚の気分の俺に投げかけられる微妙な視線。痛い、痛いよ!(ノ_・、)

 そう、ジェンダー(社会的性)といえば、社会総体が作り上げた男性像、女性像が各人、特に女性の自由の妨げとなっているのではないか、という問題です。某教師が言うに、ランドセルの色や”内助の功”等が象徴的です。

 しかし、こういった差別問題につきものなのが、被差別側(ここでは女性)の特権と、差別側(ここでは男性)の不利の無視です。

 俺の趣味の一つにガーデニングがあります。花を育てるのが好きですし、部屋にアクセントとして飾ってあるのも素敵だと思います。また、甘いものが大好きです。特にあんこ類は目がありません。
 だが、この社会はいささか、こういった趣向を女性のものとみなす傾向があります。そこのウェイトレス!人がパフェ頼んだからってクスッと笑うな!(;`O´)o そこの花屋の店員!人が切花買ったからって意外そうな顔するな!(;`O´)o ……(ノ◇≦。) ビェーン!! (ウソ)

 

同化

2004年9月27日
 過去に体験した輝きを思い返してみると、ただ一つだけ共通したことがあります。それは、自分の境界が曖昧になっていることです。
 つまり、ここにいるはずの自分を感じないんですね。例えるなら、完璧なまでにリアルな風景のビデオを見ているような感じです。さらに、その景色の写真を後で見返してみても何も感じませんでした。

 これらから思うに、俺はその環境と同化していたのだと思います。つまり、俺の内的(精神)世界と現実世界が重なって、自分が現実に引き込まれ、現実が自分の中に引き込まれるようなことが起こっていたわけです。

 もしこれが正しいとすると、輝ける世界の条件は純粋に、五感を通して得られる知覚の産物ということになります。
 しかしながら、これでは中学、高校とほとんどこの体験をしなかったことへの説明が出来ません。んーっ、なんとも……。
 秋休みで暇なので、よしもとばなな氏のエッセイ集を何冊か立て続けに読んでました。その内、”日々の考え”(リトルモア)のインタビューの中で、個人的に興味深い一節がありました。

 内容は要するに以下の通り。恋愛において、男性は女性に比べてセックスの要素が重きをなす。よって、やってしまったらそこまでという感じがあり、本当に好きな人には遠くで輝いていてもらいたいという気持ちがある。一方、女性は、他人が入って来れない自分(達?)の住処、つまり巣を作りたがる。

 某下ネタ大魔王が25日付けの日記で書いたネタと、良く合致するものだなと思いました。小学校で、男の子が好きな女の子を敢えて遠ざけるとか、そういった行為も結果的に女性に受け入れられやすいんですかねェ。

 っと、話を本題に戻します。上記の話の続きでインタビュアーの方が、子供の頃、周りの男の子の多くはいちばん好きな子をオカズに出来ないようだった、と述べ、さらに、男性の大半はそうであるらしいと話は至ります。

 最もやりたいからこそ、遠く距離をおく。感情論どころか、生物学的にも矛盾だらけです。しかしながら、俺は男として痛いほどこの気持ちがわかってしまうわけです。一般論なんかしったこっちゃありませんが、ここは”彼女居ない暦=自分の年齢”の俺が自己省察をしてみたいかと(頼りないなァ…(*゜.゜)ゞ)。

 つまり、俺の場合は自己嫌悪が原因なんですな、うん(^・ω・^)
 自分が大嫌い ⇒ 自信の欠片も無い ⇒ 恋愛が深まるほどに相手を不幸せにする恐怖
 いわば、最も好きだからこそ、大嫌いな自分で染めたく無く、よってある程度以上深く関わらない。さらに、大嫌いな自分を露呈しすぎて(密に関わる事は、同時にお互いの欠点を晒すことを意味する)負の感情を抱かれるよりも、印象にはっきりとした正負を伴わない浅い付き合いの方が良いと。
 さらに、その人を勝手にオカズにするのなんぞ、視姦よろしく相手を汚す行為であり、人である以上断じて許されるものでない、と(逆に言えば、初めからそういった意図を帯びたものは問題ない?)。この道徳感情に、上記の聖別が上乗せされてより強固なものとなる。

 結局、理由なんぞ人それぞれです。そういったことを自己省察してみると、人によっては思わぬ収穫が得られるかもしれません。ただまあ、なんというか、俺の場合はますます自分が嫌いになりました(爆)

(初めは男性と女性の恋愛に対する姿勢の矛盾点について考えるつもりだったのですが、女の気持ちなんて男の俺にはサーっパリなのでボツ s(・`ヘ´・;)ゞ)
 今日は下らない日記です。読んでも無意味というか、時間の無駄というかヽ( ̄∇ ̄;)ノ (あ、それは今までと一緒か(爆))

 ***
 
 最近、なんらかんらいって65kgに安住の地を見出しかけていた矢先のこと。昨日の部飯の際、某ファミレスでチョコレートパフェとびっくりコーラを頼んだら、先輩から痛烈は一言。

”糖尿病になるよ”

 Σ(=д=;)ノ !!

 ええ、甘味が大好きです。この世に砂糖とマヨネーズさえあれば生きていけるような人間です。不健康の見本!す〜ばらしい!(バカ)

 多尿程度ならともかく(そりゃ、崩尿症クラスになると洒落にならんが)、インスリン注射は本当に勘弁願いたいものです。
 というわけで、甘味ジャンキーである俺は、脱中毒をすることに決心しました。

 季節は冬が近づきつつあります。冬なんて体重を増やすためにあるようなもので、痩せることなんてまずありません。ですので、冬太り予防措置としてついでにダイエットを再びしときます。

 前回の絶食が失敗に終わったので、今回は一日辺り1000キロカロリーに制限します(育ち盛りの子は絶対に真似しないこと!!大人もせいぜい1500までに!! 前回、アクセス解析で結構それっぽいのがひっかかってたので)。俺は身長が低い上、もう若くない(ティーンエイジャー名乗れるのも後一年だよ(ノ_・、))ので、必要カロリーが一日2000ぐらいとして、理論上一週間で一キロ落ちます。6〜8kg落とすつもりなので、ざっと二ヶ月です。さて、どれだけ続くものでしょうか。

9月24日の日記

2004年9月24日
 んーっ、色々こらからのありかたを考えてます。眠いのでまた明日。

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